2011年11月2日水曜日

南極大陸 犬の活躍

樺太犬の飼育、教育責任者
  1. 白瀬矗の南極探検
  1. 第一次日本南極地域観測隊ー昭和32年~
飼育係といっても、それだけが任務ではありません。特別な飼育能力があったわけでもないでしょう。
白瀬隊の二人は、樺太で犬とともに生活していたそうです、雪原での犬ぞりの扱いは言うならばプロだったのでしょう。
1956年(昭和31年)11月、総勢53名の第1次南極観測隊隊員がタロ、ジロを含む22頭の樺太犬と
もに宗谷は出発しますが、赤道越えのための冷房室が特別に用意されたそうです。
これは、白瀬矗南極探検の経験から、樺太犬の暑さ対策でした。明治43年当時の204トンの開南丸(元帥海軍大将東郷平八郎命名)に冷房設備のあるはずも無く、赤道越えで多くの戦力(樺太犬)を喪った苦い経験に基づいたと思われます。
白瀬矗南極探検は、オーストラリアで樺太犬の補給を行って南極に向かいます。

南極大陸の映像内では、ローリングとピッチングを繰り返す宗谷の中で、右往左往する隊員とともに犬の動揺模様も再現されていますが、どちらも慣れるまでは大変だったでしょう。ただこの映像の中で、船内に大量の海水が流れ込んで居るように見えましたが、実際にあのような事態になった場合、船は沈没の危険もあります。最大35度も傾くのですから、甲板には海水の侵入はあります。しかし船内には入らないと思うのですが・・・・・緊迫感の出し方が違っているように思います。
乗り物酔いは三半規管の影響が大きいといわれます。生来弱い人は、経験だけでは慣れることは無いかもしれません。船乗りになるには、この辺もクリアしないと大変なことになります。

1958年(昭和33年)2月、宗谷が南極付近に到着した。1次越冬隊と交代する2次越冬隊を乗せていたが、悪天候で接岸できず昭和基地から帰還する第1次隊員の人間たちでさえ、小型雪上機でかろうじて宗谷に帰還する有様であり、15頭の犬は昭和基地に置き去りにされた。
白瀬隊も置き去り事故は発生して、山辺安之助、花守信吉、の二人が故郷の人々から辛い仕打ちに会う事態にまで発展している。其れほどまでに犬は樺太で大切な存在でした。
昭和基地に置き去りにされた15頭の犬は、3次越冬隊のヘリコプターによって発見されます。1次越冬隊の犬かかり北村泰一氏は3次にも参加しており、記憶にある犬の名前を順次呼んでみると「タロとジロ」のところで反応があったそうです。子犬だった2頭は成犬になり、その後帰国して余生を日本で送ることになるわけですが、残された食料には口を付けずに、共食いも無く、いかにして生き延びたのでしょう。北村泰一氏はアザラシやペンギンを捕獲して生き延びた?と記しています。しかし、いつもいつも猟に成功するとは限りません。さらに水です、海水では飲めませんから、雪を食べていた?
書物に記述はあるのでしょうが、目にしておりません、しかしネットに「フランスの越冬隊に救われた」とあったのです。
この事は、この先も公に公開されることは無いでしょう。素直に【フランス隊ありがとう】と言えない事情は何処にもないと思うのですが?
オングル島で氷に閉じ込められて進退窮まった折に、ソ連の砕氷艦オビ」の救援により辛くも脱出に成功。、1960年(昭和35年)に再び同艦に救出されており、その間1958年(昭和33年)にもアメリカの砕氷艦「バートン・アイランド」号に救出されている。
宗谷2224トンは海南丸204トンの約11倍の大きさです。しかも1936年の発注元はソビエト連邦でした、これは驚きの事実です。北極海を有するソ連やアメリカは、砕氷船の建造は、軍事と同時に経済面でも、氷の海を進むには必要不可欠の機器だったようです。冷戦時代にそれらの国に助けられたことに比べれば、犬を助けたお礼の一言や公表することは何の問題も無いと思うのですが・・・

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